目が覚めたのは十一時を少し回った時だろうか。
否、正確に言うとすれば、目が覚めたのではなく起こされたのだ。
海王の記憶にある最後の時刻表示が七時前後である。
多少の気だるさを感じながらも、体はいつもよりも軽く起き上がった。
連続ネット小説 海王記
●この物語はフィクションであり
実在のいかなる団体・個人とも一切関係ありません。
毎朝の恒例とも言える、市販のインスタント・コーヒーを前に、海王は一人沈黙していた。
折角の休みである日曜日に、午前中から母親の買い物につき合わされるのは面白くない。
できれば、行きたくはなかった。
しかし自分が一度行くと言ってしまっているのだから、余程の事が無ければそれを撤回する事はできないというのが海王の考えだった。
高校生であるうちで楽な時期と言うものがあるとすれば、夏休みは間違いなくそれにカテゴライズされるべき環境であり、それは誰もが認めるところである。
しかし、生徒会と言う仕事をやり始めた海王には、夏休みにも午前中は学校へ顔を出さなくてはならなかった。
夏休みが明ければ瞬く間に試験が立て続けにあり、その後、文化祭が控えているのだ。
しかしそれも、土日には休みとなっている。
実質、夏休みに入って初めて寝坊が出来る日なのだ。おまけに、海王の働いているコンビニエンスストアのバイトもこの日は休みだった。
午後は寝て過ごせるのだから、午前中くらいは家族の為に使ってもいいではないか。
そう、頭ではわかっている。
だが、海王はどこかイライラとする自分を自覚していた。それも睡眠不足な上に寝起きだからだ、と言い聞かせると、いくらかマシにはなる。
胃が収縮しているのがわかった。空腹ではあるのだが、とても物を入れたい気分ではない。
胃液を全て吐き出して、冷たくて綺麗な水を流し込みたい衝動に駆られた。
海王の母は、コーヒーにいつまでも口をつけない海王に早く支度をして出なければならないのだから、急げと言う。
事実、海王が夜更かしをして中々起きなかったせいで、予定が大幅に遅れてしまっているのだ。
海王は目の前に置かれたプラスチック製のグラスに注がれているコーヒーを、多少の抵抗を覚えながらも胃に流し込んでいった。
あまり気持ちのいい感覚ではない。だが、半分も飲んでいると胃も落ち着いたようである。
海王は、母の焼いたトーストをかじりながら、体に重くのしかかる重力に耐えていた。
あまりのろのろとしてはいられない。
*
家を出ると、自転車を持つ。
と言うのも、海王の通学と通勤に使っていた自転車が二台、使用不能な状態で放置されていたから、それを近くの自転車屋へ捨てに行くところなのだ。
そして海王の持つ方は前輪が全く動かなくなっているため、後輪だけを接地させて、ハンドルを持ち上げる形で運ぶ事になる。
あわよくば、修理しても代金を高く取られないならば、そうしようという思いもあった。が、前提は破棄である。
家から徒歩五分ほどの場所であるため、移動は簡単だった。
「あー、こっちはもう前輪部分のフレームが完全に歪んでるんで、修理するならもうこれ自体をとりかえるしかないですね。」
「じゃあ、それはもう捨てるという事で・・・。」
海王は、そんな母と自転車屋の店員の会話を聞きながら、予想通りな展開だと思う。
「えっと、じゃあこっちは?」
「こっちはチェーンですね。他に特に異常がないようでしたら、これを取り替えるだけですぐに使えますよ。料金は〜〜〜〜。」
「あぁ、じゃ。それでお願いします。」
聞くともなしに聞いていた海王も、安いな、と思った。後は自転車を二台預けて、チェーンを新しくした一台を取りにくればいいのだ。
勿論、代金はその時支払う事になる。
夕方に取りに来るという約束をして、海王は自宅へと戻る。まだ、予定の半分をすら消化してはいないのである。
帰ると、すぐに自分の部屋に放置されていた携帯電話とサングラスを手にとって、また家の外へ出る。
自転車が壊れてしまったときに買った新車のキーを玄関にブラさげているので、なくなる事はない。
母がバイクに乗りエンジンをかけたのを確認しながらも、海王は家の鍵をしめた。
目的地は何処かは知らされていない。どこかのペット・ショップだとは聞いたが、海王の知らない場所であった。
ただ、ついていくしかない。
最初は遅いスピードで走る母のバイクと並ぼうと少しスピードを上げると、バイクは自転車に追いつかれぬよう回転を早める。
また追いつこうとすれば、あちらも離れようとするのだ。
それで海王がスピードを緩めれば、バイクは見えなくなる。それがいつものお決まりのパターンとなっていた。
海王は、この言い知れぬ不快感が嫌いだった。
「自転車でそんだけ走れるなら、私がスピード緩める必要ないじゃない。」
そんな母の声が聞こえてくるようで、ひたすらに酷使し続けなければならない自分の足を心配しつつ、そんな事を考えてもいないであろう母への不満を口の中で噛み潰した。
くだらない事なのだという意識もまた、海王の中にあるからである。それを口に出すのは、滑稽なのだ。少なくとも、海王はそう考えた。
信号の前で止まっている母に追いつき、声を大にして尋ねる。
「まずどこ行きゃいいの?」
「えーと、○○駅の方をあそこのスーパーの後ろから回って・・・。」
「○○駅に向かうっ!」
そこで合流すればいいし、信号を待っている間にするような会話で道順などが説明し切れるわけがない。
所謂ランド・マークを指定したのだが、海王の母はそれをわかっていなかった。
それが、海王の傲慢か母の迂闊かは判らない。
ただ、どうでもいいという言葉が頭を掠めた。とりあえずの目標さえあれば進む事は出来るのだ。
海王は、自転車を運転する自分の体が酷く疲労しているとは感じていたが、それ以上に精神的に参っていた。典型的な睡眠不足である。
早く終わらして帰りたいというのが海王の本心だった。
駅に着くと、そこに母のバイクが滑り込んできたところだった。
母の手の動きを見、道沿いに真っ直ぐ進めばいいのだと思えた。
海王は、緩やかな坂道を登りながら、バイクの免許などは死んでも取るものかと考えた。前方には、赤いテール・ランプがサングラス越しに海王を挑発しているように見える。
恐らく、数年前のオリンピックマラソンでゴール直前でサングラスを投げた選手は、今の僕ほども足の疲労がなかったのだろうと、そんな事が頭をちらついた。名前は、高橋といっただろうか。
どうしてかは、わからない。
そして、数回のアップダウンを繰り返すうちに、海王はこの道を帰りにも通らなければならないという事に気がついてしまった。
疲労が、ドっと体を襲う。が、海王はとりあえず目前の目標を達成しようと考えた。
人の生き方などは、直面した事態に対応していくだけであって、それを見越した行動など出来る訳がないのだと海王は思った。今も、それは同じである。
後の事は後で考えればいいのだ。
ただ、そんな考えが、未然に防げるはずの不幸を回避する事を不可能にしている事を海王は知らない。
母のバイクが十字路を右折するのを確認し、海王も自転車のハンドルを切った。
道路沿いに、小さな店が見える。傍目にもペットショップだと判る事から見ても、間違いないだろうと確信し、自転車を停めた。
急いで店に入ろうとする母に、海王は黙ってついていった。
中は冷房が効いていて、外よりは余程涼しくなっていた。だが、人が雑多に集まる場所を嫌う海王は、いい気はしない。
母が広告にある品、犬のオヤツをカゴに入れた後、海王は聞いた。
「まだ探すものがあるのか?」
海王の母は、買い物に来ると必ずいらないものを見ようとする。どこの主婦も同じなのかもしれない。
ここに来ている理由は、父に買い物を頼まれたからだと言う。
が、海王は、御遣いなら御遣いの任を果たせば帰るだけでいいだろう、と言っているのだ。
しかし、海王の母はそれには答えず、店の奥へ行こうとする。
海王は、自分のストレスが溜まるという事に、疑問を覚えた。いつもは何でも自己完結して感情など表には出てこないのが海王なのである。
だが、この日は、いつもとは違った。
また始まったな、と海王は思う。
店の少し奥、誰もいない空間を見つけると、母は声を潜めて喋ろうとした。いいにくい事なのだろう。
海王は、母が、そういう事を気にするというのも判ってはいたが、それは理解しているのであって、納得も共感も出来ない。
「でかい声で言えよ。」
海王は、思ったままを口にした。あからさまに嫌な顔をする母の目を、海王はみようとはしない。
「エサの、サンプルとか・・。」
そこまでしか聞こえなかったが、十分だった。
エサ代が浮くから肖りたいというのである。
海王は、「外で待ってる。」とだけ返して、日差しに体を照らした。瞼が下りよう下りようと海王の意識を圧迫するのは、日差しのせいか寝不足のせいか。
海王は、近くに設えてある自動販売機で、アクエリアスを一本買い、飲みながら母を待つことにした。
何分ほど待っただろうか。気付くと、既に買ったものをバイクの椅子に下にあるスペースに収納せんとしている。
海王が自転車に近付くと、母親が口を開いた。
「サンプルなかったわ。あんた、このまま帰る?」
また、海王の中に負の感情が芽生えるのが自覚できた。
「どっか行くの?」
そういうのが精一杯だった。海王が聞かされていない事を、さも当然のように口に出す母親の喋り方は、会話というにはお座成り過ぎるとは思うものの、何度言っても本人はそう思わないのか、改善される様子はない。
海王はよく、母親に会話がしたいのか、それとも喋りたいだけなのかどっちなんだと聞いた。
だが、母親は困惑するだけで、海王の言おうとしている事は、わかるはずもなかった。
「業務用スーパー行ってジュース買って・・・。」
それは、海王にはあまりいい気のしない店の名前だった。
「先に帰るわ。気をつけてな。」
自転車に跨る。海王は、最後に言った。
「なぁ、僕が来た意味あったのか?ま答えないでいいけど。じゃ。」
海王は、母とは目を合わせはしない。
不機嫌な時は皮肉っぽくなる癖は、遺伝であろうと思う。だからどうしたと言う物ではないのだが、そう思うのだ。
一人、帰り道を行く途中で、帰って寝ようと思った。そうすれば、少しはマシになるだろう。
来るときと比べると、道は険しくはなかった。それは、意味もなく起こされ、家を出て、結果時間を無駄にしただけという現在の状況に、どうしようもないフラストレーションが溜まっているからかも知れない。そう思えた。
だから、午後は寝て過ごすのだ。そうしないと、行き場のないストレスが爆発するのではないかと海王は思った。
家に着くと、先ず自室へ行き携帯と財布を放り出し、その後トイレに駆け込み、落ち着いたところで自室へ戻った。
海王の心に、自分は激しやすい性格を持っているのかもしれないという言葉がふと浮かんだ。
部屋に入ると、携帯の着信音が部屋に響き渡っている。
番号は、知らない人。
真実そうなのではなく、知らないのではない。登録されていないのだ。番号には見覚えがあった。
海王は、基本的に登録のない番号からの電話には出ない。何故なら、自分が教えてもいない人間が何故か自分の番号を知り、強引に話しかけようとしてきているという事だからだ。
だから、留守番電話のメッセージを残さないものは、何度かけてきてもことごとく無視した経験もあった。
その番号は、バイト先の先輩からだった。
「もしもし?」
「あーもしもし、Nですけど、今日なーなんか御通夜じゃなくって・・・なんやったっけ・・・なんやったっけ・・・・なんか十七回忌?みたいなヤツで遅れそうやねん。今度の土曜とバイト変わってくれへん?」
「あぁ〜、いいですよ。はい。それじゃ。」
あの人も、大変だなと思う。
海王は、その電話の終わった後、三十秒ほど経った後だろうか。計り知れない脱力感を感じた。
つまり、寝れないのだ。
海王の考える寝るという事と、睡眠をとる事自体は少し違っていた。バイトのない、時間に制限のない睡眠であればそれは寝ると言う事だが、予定の詰まっている状態での睡眠は、ただの体力回復にしかならず、精神的には何も回復はしない。バイト先で眠くなってしまわないようにするだけの『処置』でしかないからだ。
つまり、海王は折角の睡眠を邪魔されて無駄に体力を浪費した結果、それでも休めるからいいかと思っていた所に、突如その安楽を掻き乱され、不快感を叩きつけられたのだ。
海王から見た状況は、それだった。
だが、海王がどう思おうと、どんな私生活を送りどれほどの睡眠時間を獲得していようと、海王を雇うバイト先には関係がない。
その程度の事は、海王はわかっていた。
そして、過去に経験した記憶がないほどの絶望を味わった。
憤慨や嫉みが、全て無気力に還元されたのである。
海王は、寝ることにした。
携帯電話のタイマーを十六時頃にセットし、布団に横たわる。バイト前のこの状態こそ、ストレスの溜まる瞬間はない。
目を瞑り、休みが消え、明日もバイトがあり、そうなると今週はもう気の休まる日がないという事に気がついた。
夜寝ることは、次の日の朝起きることが前提であり、起きて学校にいって、その後寝るのはバイトの前に起きる為である。
つまり、海王の考える睡眠と言う物は、消滅してしまった事になる。
が、全く気力のなくなった海王は、そんなことよりも、どうしてどうでもいい嘘ばかりつくのに、自分の為の嘘がつけないのかなと、疑問に思った。
いや、どちらかと言えば、本当の事すら言わないのだ。本当の事を言うのなら、疲れていると言えばいいだけであるからだ。
だが、海王は他人の迷惑になるくらいなら自分がしんどくなればいいと思ってしまう節があった。
そんな事を考えているうちに、海王は深い眠りについた。
つづく